エイミー・ガットマン『民主教育論』レポート全文

『民主教育論』の紹介はこちら。

 

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見にくくてすみません。以下レポート全文。約20000字の大作。長いので注意。 

 

☆ 序章 基礎に帰れ
問題の所在
民主主義国家において国民が主権を持つためには、子どもとして支配(教育)され、そのあとで支配(教育)する必要がある。ここで、誰が教育に対する権力を持つべきかという問題が生じる。序章では議論の前提となる3つの課題に答える。

○理論の必要性(9~)
Q.理論に依る理由は何か。
A.理論(教育目的を根本的なところから支えるのもの)の理解がなければ、改革自体が評価できないものとなるから。「より良い」教育は、どのような目的に照らして「より良い」のかという問いに対し、理論なしでは答えがあいまいになってしまう。

○民主的な理論の必要性(12~)
Q.理論の必要性が擁護されたとして、なぜ民主教育論に行きつくのか。
A.民主的審議によって成立する政策が常に正しいものとは限らないが、その政策は無責任な教育専門家が作り出す政策より遥かにいいものであるから。民主教育論は、教育政策を形成する国民の権限を強化するとともに、民主的審議に必要な知的社会的基盤を確保するための原則――非抑圧と非差別――による制限の重要性を認める。
・民主教育論の特徴
教育問題に関する不可避的な意見の相違の中から、民主的な徳性(われわれが、教育の理解と相互の理解をいっそう増進させる方法で、教育問題を公的に論争できるような道徳意識)を作り上げること。つまり、民主的な審議は意見の違いを調整するための手段のみならず、民主教育の重要な一部として捉えられる。
・民主教育論の最大の目的
問題の解決策の提供ではなく、問題を民主的価値に基づいた方法で解決しようと考え抜くこと。つまり、ある問題についてわれわれの意見の不一致を調整し、またそれらを民主的に議論することによって集団の生活を豊かにする公正な方法を見つけ出す努力をすること。

○教育に焦点化する必要性(19~)
Q.民主教育論が、なぜ教育に焦点化するのか。
A.民主教育の理想は、社会の意識的再生産であり、そのために不可欠な営みである教育に働きかけるのは必然だから。民主教育論は、民主主義社会の構成員が社会の意識的再生産にどのように参加すべきかを理解することを目的とする。

○理論の実践への転化(21~)
本書の見通し
・教育に対する権力の問題について、本書を通して理論を構成する
民主教育が提起する中心的問題は、将来の国民教育を構築する権力を誰が持つかということ
・第1章において、もっとも影響力のある非民主的な国家と教育の3つの理論に対抗して、この問題に対する民主主義的な解答を原則的概括的に展開する
・第2章~第9章では、今日の合衆国の教育政策の実際的意味を、その理論的基礎に立ち戻って究明することを試みる
・結章において、筆者は政治それ自体が教育の一つの形態であるとする民主教育論の主張が有意義であることを示し、民主教育と民主主義の政治のどちらも追求すべきだということを述べる

☆第1章 国家と教育
問題の所在
人間の教育の目的は何か
・「教育は体制の実際ではなく体制の原理によって導かれなければならない」(28)
特定の社会の原理または体制がどうあるべきかに関して意見を一致させることは困難である。そのため、われわれはどのような原則がだれの解釈にしたがって支配すべきかを決定するために、教育目的の分析をしなくはならない。
現代社会の教育目的が何であるべきかについての代表的な理論

⑴家族国家(family state)の理論(プラトンから引き出されるもの)
⑵家族共同国家(state of families)の理論(ジョン・ロックから引き出されるもの)
⑶個人共同国家(state of individuals)の理論(ジョン・スチュアート・ミルから引き 出されるもの)

本章では、これらの批判、修正によってより民主的な教育理論を擁護する。

○家族国家(30)
家族国家における教育の目的
・「教育可能なすべての子どもたちに、国民にとって良い生活とは何か(単一の)を教え、何を措いても、まず良い生活を求める欲求を注入することによって、そのような一体性を身につけさせることである」(31)
→ガットマンの批判
「国家が規定するような客観的な良い生活≠各国民の良い生活」であるため、国家はただひとつの良い生活を規定してそれを教育目的にすることはできない。

○家族共同国家(36)
家族共同国家における教育の目的
・「教育権力を排他的に親の手に置き、したがって、親がその子どもを仕向けること、教育を通して家族の伝統と調和する生き方を選択することが認められる」(36)
→ガットマンの批判
どんな教育権力(国家や親を含む)も完璧ではあり得ないため、子どもの教育に対する排他的な権利は持たない。また、社会の多様性を可能にするためには子どもたちが彼らの親とは違う生き方に曝され、その過程で個人間の相互尊敬のような価値観を身につける必要がある。

○個人共同国家(40)
個人共同国家における教育の目的
・「彼らが理想とするのは、子どもたちに良い生活についての問題の多い概念のいかなるものにも先入見を与えないで、子どもたちの将来の選択を最大化する教育権力である」(41)
→ガットマンの批判
親、政治権力、専門職教師のいずれも、自由主義的な中立を保ちながら教育に関与するのは難しい。また、自由と対立する徳性も教育の目的として価値づけられるため、選択の自由の最大化だけを唯一の教育目的とすることはできない。そこで、教育の非中立性を正当化する根拠となる教育目的が必要になる。
そのような教育目的として、「社会の意識的再生産」が設定できる。この目的によることで、例えば宗教的不寛容や人種的偏見は間違いだという徳性を、自らの非中立性が将来の子どもの自由を拡大するという正当化なしに教えることができる。

○民主的教育国家(49)
民主的教育国家における教育の目的
・「民主的教育国家は、その構成員が民主主義の政治に参画し、(制約された範囲ながら)良い生き方を選び、国民のそれぞれの生き方にアイデンティティを分かち伝えられる家族のような小単位を構成するための十分な教育を社会の構成員に提供するために、その教育権力を配分することに取り組む」(50)
→ガットマンによる説明
民主的教育国家では、教育権力を親、国民、専門職教師が共有しなければならないとされる。
民主的教育国家による国民の道徳に関する非中立的な教育を擁護する理由は2つある。第一に、すべての社会はその構成員が生き方の善悪について識別できるようにさせる道徳的価値を認めなければならない。子どもたちは、生き方に関して中立に走る教育では善悪の識別を学習できない。第二に、子どもにとっての良さは選択の自由だけではなく、家族、社会への同一化や参加が含まれる。自由のみに焦点化するのは、家族や社会の内における生活の意義を分かち伝えるような部分的に偏向した方向づけを否定する。
民主主義の政治的過程に国民が参加し、社会の意識的再生産を行っていくために必要な制限として、以下の2つの原則がある。

①非抑圧(国家や国家内のどんな集団も、良い生活や良い社会に関する合理的熟慮を制限するのに教育を利用してはならない)
②非差別(社会の意識的再生産のためにはすべての教育可能な子どもたちが民主主義の政治的過程に参加できるように教育されなければならない)

この2つの原則のもと、民主的教育国家は民主主義的な徳(審議する能力、社会の意識的再生産に参加する能力)を教えようとする。

☆ 第2章 初等教育の目的
問題の所在
初等教育の民主的目的は何か
※「初等教育」はここではアメリカでの小学校教育と中等学校教育、日本でいう小学校から高等学校の教育を指す
・本章では、民主教育にとって本質的な初等教育の目的を二つ挙げて擁護する。続いて道徳教育に留意しつつ、初等教育に関する三つの一般的解釈を批判し、この解釈を発展させる。

○熟慮と民主的人格(60)
初等教育の二つの目的
・論理的推論能力の教育と道徳的人格の教育は両方民主教育にとって必要であり、その役割は初等教育が大部分担う。

○非道徳主義(64)
道徳教育における学校の役割
・「学校が人格の発達と道徳的推論の訓練を家庭および教会・ユダヤ教会のような自発的団体に任せるべきであるというものである」(64)
→ガットマンの批判
学校はあからさまな道徳教育から手を引いてもなお、潜在的カリキュラムや教育課程外活動によって道徳教育に従事している。学校で学ぶ限り道徳教育からは離れられないのだとしたら、学校が道徳教育を行うか否かではなく、どのように道徳教育を行うかが議論の対象になる。家庭は特定の生き方の固有の価値を子どもに教育する点で、学校は大規模で多様な社会における義務と権利を教える点で、ともに道徳教育において相互補完的な役割を有している。

自由主義的中立性(65)
初等教育についての個人共同国家的解釈

・「学校が子どもたちを良い生活に関する何か所与の概念あるいは特定の道徳的人格(この能力によって規定される以外の)に仕向けることなく、子どもたちに道徳的推論と選択のための能力を教えなければならない」(65)
→ガットマンの批判
自由主義的中立論で支持される「価値明確化」という教育方法では、道徳教育の二大目的を定める。一つは、生徒が自分自身の価値観を理解し発達させるように支援すること、もう一つは、他者の価値観を尊敬するように教えることだ。
価値明確化の問題点は、あらゆる道徳上の見解を平等に扱うことで、「私は私の意見、あなたはあなたの意見、誰が誰を正しいと言えるのか」という誤った主観主義を子どもたちに助長することだ。価値明確化が教える無差別な寛容性や相互尊敬に対する批判は個人共同国家そのものにも一般化して当てはめることができる。

○道徳主義(67)
初等教育についての家族国家的解釈
初等教育の目的は人格を教え込み、子どもたちが追求に値することだけを選択するよう制限することだという考え方に立脚する道徳主義者は、さらに保守主義的道徳主義者と自由主義的道徳主義者に分けられる。

保守主義的道徳主義(67)
保守主義的道徳主義者の主張
・「保守主義的な道徳教育の目標は道徳的に「行動」することを子どもたちに教えることである。道徳教育で大切なのは、その過程ではなくその結果――道徳的判断力ではなく道徳的行動――である」(68)
→ガットマンの批判
すべての学校教育プログラムは道徳的行動を生み出すという点で不十分性をはらむので、十分性以外の学校の道徳教育を評価する基準が必要となる。
そのような基準の一つが、比較有利性である。学校が用意できる道徳的実例(例えば模範的な教師)が子どもたちに与える影響力は親には及ばないだろう。だが、学校は意見の不一致を粘り強く論理的に考え抜くことや、民主主義体制に適合する政治的道徳性を理解させる上で親やその他の自発的集団よりもはるかに大きな比較有利性を持つ。
また、道徳的行動を創る方法が分かったとして、正当化のためには民主主義のプロセスが必要であるが、保守主義的道徳主義者の政策に対する合意が国民の間にあらかじめあるわけではないため、必ずしも保守主義的結果に辿り着かない。

自由主義的道徳主義(71)
自由主義的道徳主義者の主張
・「自由主義的道徳主義は、保守主義的道徳主義とともに性格の教え込みに関わるという点では一致しているが、道徳教育の目的として、道徳的自律性を掲げている点において保守主義的道徳主義者とは異なる。つまり、教育は、すべての人に一般化できる基準に基づいて、子どもたちに、道徳的に選択する意欲と能力を生み出さなければならない」(71)
→ガットマンの批判
自由主義的道徳主義者は、どうすれば既成の権威ではなく道徳的原理を尊重することを子どもたちに教えることができるかという問題に陥る。ピアジェの道徳発達研究からロールズが導き出した道徳性の発達の三段階によると、まず子どもは権威付けられた規則に従う「権威の道徳性」を、次に集団の中での役割遂行によって集団と自分が利益を得るために規則に従う「集団の道徳性」を、最後に道徳的原理そのものに従う「原理の道徳性」を学ぶ。保守主義的道徳主義者は子どもを権威の道徳性に従わせようとするが、それでは権威への無条件の従属を招く。一方自由主義的道徳主義者は子どもに原理の道徳性を習得させようとするが、道徳的自律は権威者の要求に応えることで達成されるものではないため、学校で教えるのは難しい。集団の道徳性に必要な民主的徳性は、例えば、黒人と白人を同じ学級で教えること、宗教的・民族的相違を尊重することなどの方法で教えられる。国民の権利や義務の共有を求める民主主義の観点からは、集団の道徳性は哲学的には原理の道徳性より段階が低くても、初等学校における民主教育の目標になる。

○親の選択(75)
民主主義的見地からの主張
・「初等教育の目的を決定するためのもっとも公正で――もっとも民主的な――手続きは、地域社会よりも親に学校を選択する権限、そしてそのことにともなって、子どものための教育目的や教育方法を選択する権限を親に与えることである」(75)
→ガットマンの批判
親は初等教育の目的や方法を選択する第一次的な権力を持つだろうか。多くの公立学校批判者は、私立学校が公立学校に比べてすべての生徒を平均的相対的に高い学習水準に引き上げ、民主的徳性を育てるのに成功しているらしいことや、学校が富裕な親だけでなく中産階級や貧困な親の市場選択に注意するようになることから、すべての親にその子どもの学校を選択する権限を与えようとする。これを具体的な政策に落とし込むとバウチャー・プラン(認可された教育サービスに費やす場合には個人を対象に補助金が支給される引換券をすべての親権者に与えるという施策)になる。バウチャー・プランを行うならば、国民教育における集団的利益を保障するために政府がどの程度対象となる学校に制限をかけるかという問題が発生する。
しかし、学校教育の政治に民主的審議の場が確保されなければ、制限が最大限であれ最小限であれ、学校教育への公共的制限は集団的利益を反映するものとは言えない。バウチャー・プランの問題点は、親の選択権が大きすぎることではなく、民主的審議によるところが少なすぎることである。
バウチャー・プランが魅力的に見える理由の一つとして、公立学校があまりに集権化され官僚化されたために親が国民とともに地域の学校の民主的統制を実際にはわずかしか行使できないという問題があるが、これは公立学校への中央集権政府からの支配を弱め、民主化することが対応として考えられる。

☆ 第3章 民主的参加の領域
問題の所在
どの団体が学校教育に対する支配権力を持つべきか
・学校教育に対する支配権力についての問題は以下の3つが挙げられる。

①どのような民主主義の団体(連邦、州、地方など)がどのような学校に対する政策を決定するか
②誰が民主主義の団体とともに学校教育事業を共同して統制するか
③生徒自身がどのくらいまで学校教育の形成に参加を認められるのか

本章はこの3つの問題について考える。

○民主的統制のレベル(P87)
民主主義の団体の規模と権力
・小規模で単純な民主的都市国家において国民のアイデンティティの基礎になる共通の文化は、以下の2つの要素から成り立つ。

⑴この都市国家固有の信念と行動(共通の言語を用いる、共通の祝日を持つなど)
⑵どのような民主主義社会にとっても必須の信念と行動(宗教的寛容、個人の尊厳の尊重など)

公立学校に対する民主的統制は、前者の発達にとって主要な手段であるが、後者の確保には十分ではなく、そこには民主主義の原則(非差別、非抑圧)による制限が必要である。小規模な社会では、民主的に選ばれた単一の教育委員会が公立学校の集団的決定について責任を負うことができる。そのため、地域の教育政策が競争的で公的審議に開かれている限り、民主的統制は効果的であり民主的な意思決定の結果も筋の通ったものとなる。
しかし、単一の教育委員会、そして国民が効果的に統制できる範囲を超えた大規模な社会では、公立学校の統制について国民への責任があいまいになる。また、教育に対する地方統制と中央集権化との最適の均衡を定めることは難しい。連邦政府制度のねらいは、学校に対する地方の民主的統制を確保すること、それと同時に共通の文化や民主主義の価値を上位の政府機関の適切な保護の下で教えるという制限を設けることにある。民主的統制の領分を確保できるという地方統制の利点を維持するには、学区をできるだけ小規模に保つ必要がある。
この学校に対する公共的管理の像は、以下のような教育権力の2つの本質的側面を照らし出す。

ⅰ.学校の民主主義の団体による統制と、地方統制は同一視してはならない(学校政策に関わる民主主義の団体は複数存在するため)
ⅱ.連邦や州の統制権は全般的であってはならない(そうでなければ地方の民主的統制は意味を失う)

現代社会において、地方の公立学校以外に地域社会の独自の集団的選好を反映し、これに応えるという役割を効果的に果たせる機関は他にない。

○民主的専門職主義(90)
民主主義社会における教師の役割
・初等学校に対する統制が民主的か民主的でないかは、教師および教員組合が民主的審議のための能力を身につけさせることによって非抑圧原則を擁護するという役割を果たすかどうかにかかっている。
専門職について、外部統制からの過度の自律性は「職務の傲慢化」(専門性が保証する範囲を超えた権限を持つ状態)を生み、過小の自律性は「職務の骨化」(専門性が発揮できる余地が少なく、決まったことしかできない状態)を生み出す。生徒過多、授業準備時間の不足、膨大な雑務、低賃金などの問題のいくつかは、教員組合に組織された教師の集団の力で変えることができる。

○教員組合(93)
教員組合に与えられるべき権力
・非抑圧原則により規定される教員組合の民主的目的は、教師が生徒に民主的審議の能力を身につけさせるための諸条件を確立するよう、民主主義の各団体に圧力をかけることである。そこで、どのような学校教育に対し、どの程度の権力を組合が持つかについて考える必要がある。
この問いに対しては民主的な専門職概念から原則的な指針が用意でき、それによって以下の二つの危険な解答を回避できる。

①「指示的」民主主義
→公教育の内容、形態まで統御することになるとしても、組合の権力を民主主義の各団体の上位に位置付けることを容認する(職務の傲慢化に繋がる)
②「硬直した」民主主義
→現場の教師にまったく自律性を残さなくても、民主主義の各団体と組合の交渉結果に基づく政策である限り容認する(職務の骨化に繋がる)

組合は、学校教育に対する教師の専門職としての権限を拡大することが非抑圧の原則を増進するのに必要な条件であるという理由で、民主主義の各団体に対し職務に関するより多くの統制権を教師に委譲することを説得的に主張できる。
アメリカ教員組合(AFT)は、教師の専門職としての地位の低さによって効果的な教育が阻害されていることを理由に、教師の給与や年金の改善を主張した。今日でも給与の引き上げは教育の質の改善に有効である。ただ、それが能力によって給与に差がつくことに組合が反対する根拠になるわけではない。能力給制度の確立は、優秀な教師の職務の骨化を緩和し教師の専門職化を支えるもので、組合がそれに反対するなら、それは自らの権力を濫用するおそれがある。また、組合は給与の引き上げを求めるだけでなく、教師たちが批判的考察能力を身につけられるよう学校が構造化されることを要求しなければならない。

*疑問
・能力給制度を実施する際、教師の能力はどう判断するのか。
・能力給が教育の質を改善するという根拠は何か。

○学校内の民主主義(100)
生徒は学校教育にどのくらい参加するか
・教育における参加的方法では慎みや秩序よりも、自尊心や社会的関与を養うことに重点が置かれるのであり、それを優先することは、政治に参加する意欲と能力を持つ国民を教育するという民主主義の目的の前提である。ただし、この優先性は絶対的なものではなく、たとえば無秩序や横柄さが学校の教育事業を脅かすほどに大きくなる場合には、参加的方法は訓練的方法よりも優先度が低くなる。
参加的な方法が教育にとって効果的であるかどうかは、実証的な資料に乏しく、判定が難しい。また、参加的徳性――社会的関与の感覚、政治的効力感、政治参加の意欲、反対意見の尊重、権力からの批判的距離感覚など――を涵養するのにより効果的な参加的方法が発見されたとして、そこにどのくらい力点が置かれるべきなのかも検討を要する。参加的徳性だけでなく、訓練による徳性――知識の伝達や知的規律を伴った感情的規律――の涵養もまた民主教育の目的である。とりわけ学習意欲の低い生徒においては、最善の民主的方法でも常に効果が出るわけではないことは明白である。
しかし、多くの教師が、参加的徳性ではなく訓練的徳性の涵養を専門的義務の核心だと考えていることは問題である。参加的徳性と訓練的徳性を切り離して教えることが民主教育の目的ではないが、参加的徳性の涵養、中でも特に、子どもが知的情緒的に成長するにしたがって教師や仲間と自由で平等な理論ができるようになることは初等学校教育において最大の目的にならなければならない。学校内部の民主化は、民主的人格に必須である参加的徳性と訓練的徳性をともに涵養するのに必要な程度まで、実行されるべきである。

☆第4章 民主主義権力の限界
問題の所在
民主主義の権力に課すべき原則的な制限はどのようなものか
・本章では、民主主義の権力に課すべき原則的な制限について論を具体的な例に基づいて展開する。民主主義の権力の非抑圧および非差別の原則による制限は、民主教育の理想の確立にとって必要かつ十分なものである。まずはこれに対する以下の二つの異論を検討する。
  
①強固な民主主義者の主張
非抑圧・非差別の原則による制限は必要なく、多数派が常に教育を統制していれば、結果が抑圧的・差別的であっても民主教育の理想は実現されている。
→ガットマンの批判
強固な民主主義者の主張は以下の場合にのみ理に適ったものとなる。
a) 多数派の決定が民主主義の価値とまったく一致する
b) ある時点での多数派の決定が将来にわたって国民の審議や政治的参加の可能性を排除しない
だが、これはありえない。民主主義は、正義を保証するものとして価値づけられるのではなく(ゆえに制限がない場合、多数派の決定が民主主義の価値と一致しないことは十分ありえる)、自らと将来の国民のために価値づけるものを発見する最善の方法として価値づけられる(ある時点での決定は後々まで影響を及ぼすことを避けられないため、将来の審議と決定が非民主的なものにならないようにする原則が必要になる)。
②指示的民主主義者の主張
制限を必要なものとして受け入れるが、それは十分ではなく、一般意志(ルソーが常に正しいものとした、共同体の利益のため一体となった国民の意志)を達成する決定を行うように民主主義の機関を教育し制限する追加的な方法が必要である。
→ガットマンの批判
優れた知性も過ちを犯しうる。民主主義は正しい結果に至る能力以上に、社会が自らを統治できるようにさせるという大きな価値を有している。非抑圧・非差別の原則は、多数派の専制を是認せず、あるいは将来における自己統治を犠牲にすることもしないような民主主義を支持する。この原則が守られている限り、民主主義は社会の自己統治という価値を一部の優れた知性による教育と制限よりも優先し、子どもたちの教育において過ちを犯す自由を持ち続けなければならない。

*疑問
・原則を導くのは結局「優れた知性」なのではないか。

・本章では、まず原則による制限が実際にどのような意味を持つかを公立学校に関して抑圧の問題を引き起こす以下の三組の政策を見ていく。

⑴図書館書籍の追放と教科書の認可(直接的抑圧の問題)
⑵創造説と公民の授業(間接的抑圧の問題)
性教育と性差別(「抑圧的非差別」と「差別的非抑圧」について)

次に、私立学校は非差別原則から認められるかという問題について論じる。

○図書の追放と認可(113)
学校教育における直接的抑圧の例
・地方教育委員会学校図書館から特定の図書を追放することは、非抑圧の原則に対する直接的な侵犯である。しかし、学校教育に対する民主的統制の議論は、大人の言論の自由についての議論と同列に扱えない。図書追放と図書選択は表裏一体であり、大人側の裁量権そのものが問題なのではない。地方教育委員会による図書追放政策の正統性(正しさや賢明さは別として)は、その政策が非抑圧的かどうかによって決まる。
過去の図書追放政策は、多くの場合十分な民主的審議を経ずに行われてきた上、首尾一貫した基準が適用されてきたわけでもなく、追放された図書も忌まわしい生き方を称賛するようなものではなかった。
州による教科書統制についても、同様に直接的な検閲の形態と言えるが、こちらは地方教育委員会の図書追放政策よりもはるかに広範な教育的影響を及ぼす。教科書選定の方法を評価する基準は、第一に国民の参加に開かれていること、第二に人気の低い意見の利点を国民に公開する姿勢である。
いずれの例についても、直接的な抑圧を避けるためのもっとも効果的な方法は民主的決定が行われるプロセスを改革することだ。非抑圧的な民主的審議を決定までのプロセスに採用することで、子どもたちの教育を進められるばかりか、大人の教育も進められるのである。

○創造説の教育と公民科(117)
学校教育における間接的抑圧の例
・高校の生物の授業で創造説と進化論をバランスよく教えるように教育委員会が指示することは可能かという問いの答えは「できない」である。どのような理論を教えるかは、専門職が決めることであって民主主義で決めることではない。創造説の授業は科学を装ってある特定の宗派の宗教的見解を間接的に押し付けることになるという点で、非抑圧の原則を犯している。では、科学の授業でなければ教えてもいいのか。公立学校において特定の宗教的教説を教えるという原理は、国民に共通する宗教から分離した論理的思考(必ずしもすべての宗教に中立ではないが、意見の不一致を平和的に調整するのにより優れている)を涵養するという原理に反するものである。また、ある特定の宗教を公教育で教え込むことは、対抗する生き方に関する理性的な審議を制限することに繋がるため、この観点からも宗教的に多様な民主主義の体制は公教育の中で宗教を教え込むことを認めてはならないという結論が導かれる。
公民の授業についても考えてみる。民主的な徳性は、民主的国民にとって不可欠なものである。よって、公民の授業が政治への信頼、効率性、歴史知識の増加について成功しても(批判的審議能力を含む)民主的徳性を身につけさせることができないなら、それは間接的に抑圧していることにならないかと問うこともできる。歴史や公民の授業では、政治について論理的に考える時間を設けることで民主的徳性を教えることができるし、また民主教育の目的から考えて、それは教えなくてはならない。

性教育と性差別教育(123)
抑圧的非差別と差別的非抑圧の対立
・10代に性教育をどう施すかという問題について、国民の間で意見は一致しない。親の権限を保持するために国家は性教育に立ち入るなという保守主義者の主張に対しては、親の大部分が公立学校の性教育を望んでいると反論できる。10代が自らの生き方について選択するために国家は性教育をするべきという自由主義者の主張に対しては、性教育は、節制、避妊、中絶という選択肢に対して中立的ではありえないと反論できる。民主的な審議と意思決定があれば、保守主義的であれ、自由主義的であれ、いずれかの政策的処方箋が正統化される。しかし、自由主義的な政策が正統化され実施されたとして、それに反発する保守主義者の親が公教育を避けるようになれば、義務的性教育は賢明ではない。対立する意見を持つ親のことを考慮すると、原則的な根拠から反対する親の(あるいは生徒自身の)免除規定を具える公立学校の性教育を求める民主的に公認された政策が、正統的かつ賢明なものとなる。
性差別の問題の例として、小学校教師には女性が、行政職には男性がそれぞれ多いことによって、学校は子どもに「男が女を支配し、女が子どもを支配する」ことを教えてしまうということが挙げられる。それは性的選好の結果か、差別的な採用活動の結果かを問わず、抑圧的な教訓として作用する。この場合、非差別の原則からすれば女性を小学校教師に、男性を行政職に、それぞれ多く採用し続けるべきだし、非抑圧の原則からすれば小学校教師も行政職も男女の割合が平等になるように採用しなければならない。二者択一から脱する案として、性的なステレオタイプが打ち破られるまではジェンダーを行政職や教師の資格として認めるというものがある。この政策には、非差別の原則を侵害することなく性的ステレオタイプ化の抑圧的影響を克服する可能性が秘められている。

*疑問
性教育の免除規定はいじめ等のトラブルを招かないか。もし可能性があるなら対策はどんなものがあるか。
・性的なステレオタイプがなくなったとどのように判断されるのか。
・男女比のギャップが抑圧的教訓を生むなら、ジェンダーを職業資格としなくなってしばらく経てば抑圧的教訓の再生産が復活するのではないか。

○私立学校(130)
私立学校をどう制限するか
・学校の主目的はすべての子どもに共通の民主的価値を身につけさせることであるとすると、特別な価値を身につけさせる権利、生徒をその能力、階級、宗教または性によって選抜する権利を主張する学校である私立学校は認められるのかという疑問が生じる。私立学校が裕福で優秀な生徒を吸い上げてしまい、成果を上げない公立学校の経費が削減されることによって公立学校教育が民主的目的を果たせなくなることを避けるため、私立学校教育を禁止すべきだという考えもある。この施策の主な弱点は、実情を見れば、裕福で優秀な生徒だけでなく多様な生徒が私立学校に在籍しているということである。宗教教育への強いこだわりを持った親の子どもに公立学校教育を強制することは初等教育の民主的目的を達成するためには適切とはいえないため、私立学校が公立学校と同じように民主主義に共通する価値体系を教えることを条件に、私立学校を受け入れるほうが優れた案だと言える。
宗教に関していかなる妥協も不公正であると考えるキリスト教原理主義者は彼らの私立学校に対する人種差別禁止の制約を宗教的自由に対する不当な制限であるとする。この場合、宗教的非抑圧と人種的非差別という二つの原則が対立する。しかし、キリスト教原理主義者が教会の一員である以前に社会の一員である以上、人種差別禁止の制約は宗教的人種的に多様な社会を形成するために不可欠な国民性を共有するために原理主義者が支払わなければならない対価であるとして正当化できる。

○公立学校内部の意見の相違(136)
公立学校においてある教育活動への不同意をどの程度認めるか
・公立学校が学校の方針に同意しない親の子どもを教育活動から免除すれば、より効果的に民主的価値を教えることになる。民主的価値をよりよく教育する可能性が認められるからこそ、免除の措置は認められる。子どもが成熟するにつれて、保護主義的な根拠は薄れていき、他者の民主的権利を妨害したり自らの民主教育を厳しく制限したりしない限りにおいて、権利の問題として良心に基づく拒否を尊重しなければならない。原則的制限のもとで良心に基づく不同意を尊重するなら、公立学校は民主的寛容性における価値ある教訓を提供でき、また、異議を持つ少数派の信頼も得ることができる。

○道徳教育と宗教教育の分離(137)
宗教教育に対する民主教育の優先
・宗教活動と非差別・非抑圧の原則が対立する場合には、宗教活動を禁止する十分な理由が成立する。民主的人格を発達させるという目的に適う宗教活動は、それが非抑圧の原則に反しない限り学校に導入できる。道徳教育と宗教教育は、その題目によって区別するのではなく、民主主義社会における初等教育の目的に合致するかどうかという基準で適切性を判断しなくてはならない。

○制限の制限(139)
民主主義の原理による民主主義権力の制限
・民主主義は価値あるものだが正しい結果を生み出す限りにおいてであるという見解は誤りだ。教育に対する民主主義や親の権力はよい結果を生み出す上で正しいとされるものによって制限されなければならないとして、一体誰の見解を受け入れればいいだろうか。偉大な哲学者の見解も、民主主義や親の権限への制限を民主主義の名のもとに正当化することはできない。民主主義の権力の正当化には民主主義の原理に基づく民主的審議のプロセスが必要不可欠である。

第5章 初等教育の配分
問題の所在
民主的人格の発達を目的とする初等教育はどのように配分されるべきか
・学校教育は市場によっては配分できない(市場原理に従うと貧困層や教育に関心がない親の子は学校教育を享受できなくなる)
・学校教育は、無制限な民主主義によっても配分できない(無制限な民主主義のもとでは恵まれない少数派の子どもは劣悪な環境へ追いやられる)
→さらに、三段階の分析で初等教育の配分に関してより積極的な解答を導き出せる。

配分に関わる問題について、
①われわれは明確な直感的判断を持たない
例:学習障害を抱える子どもの教育にどれだけの経費をかけるか
→われわれは結論を出す際に十分に考え抜かなくはならない
②(われわれが明確な直感的判断を持っているとしても)われわれの直感的判断はしばしば根本的に異なる
例:人種統合のために都市郊外の白人生徒を都心部へバス通学させるべきか
→社会の不一致を解決する基準を用意しなくてはならない
③大多数の者が合意しても、その合意内容が民主主義の原則と相容れないことがある
例:大多数のアメリカ国民が歴史の大部分を通じて人種差別を明らかにやってきた
→民主主義の原則は、民主的で完全な公正のため、誤った社会的合意や多数決原理の誤謬からわれわれを守るもの
 
・非差別の原則から導かれる非除外の原則
「教育可能な子どもは誰であれ、良い生活の選択を作り上げるプロセスに参加するための十分な教育から除外されてはならない」(147)
民主的な配分にとって非除外の原則は必要な基準であるが十分な基準ではない。完全な配分基準は、以下の問いに応えるものである。

Ⅰ.民主主義の国家は、他にも資源を必要とする社会目標がある中で初等教育にどのような資源をつぎ込むべきか
Ⅱ.これらの資源を、どのような方法で子どもたちに配分すべきか
Ⅲ.子どもたちはどのような方法で、学校間および学校内に配置されるべきか

教育の機会均等の理念は多義的であるがゆえに人口に膾炙しているが、その意味の中でもどれが民主的学校教育を配分する上での基準となるかを確定する必要がある。

○教育の機会均等の解釈(147)
教育の機会均等とはどんなことを指すのか
・教育の機会均等の解釈として以下の三つを検討していく。
ⅰ.最大化解釈(maximization)
→将来のすべての国民の生活機会を最大化するような方法で、これらの資源を子どもたちに配分する
ⅱ.平等化解釈(equalization)
→もっとも不利な立場にある子どもたちの生活機会を、もっとも有利な立場にある子どもたちの生活機会にまで、できるだけ引き上げるために資源を配分する
ⅲ.能力主義的解釈(meritocracy)
→子どもの証明する自然的能力や学習意欲に応じて、国家が教育資源を配分する

○最大化解釈(148)
最大化解釈の根本的な問題
・最大化解釈は、そのままでは子どもの生活機会の最大化のために他の利益をすべて最小化する。最大化解釈の賛同者は「子どもの生活機会の増大が軽微な事柄ではない場合」という条件を付けるかもしれないが、それは国民が集団的に支出する経費に対する実際的な制限にはならない。また、条件を付けたとしても、生活機会の最大化のために他の利益を最小化することを強制する十分な理由は得られない。さらに、教育機会に関係する財は様々で、どこまでの範囲でどれにどのくらい経費を出すかという難しい選択に最大化解釈は指針を示せない。
そもそも、社会がもっとも価値があるとする利益の最大化に向かって努力すべきだという誤った概念に立脚している点で最大化解釈は誤りである。この世界に、いかなる単独の利益も最大化に値するほどの価値はなく、民主的国民はどの利益を選択するかの自由を持たなくてはならない。

○平等化解釈(150)
どの程度の平等化を目指せばよいのか
・完全な平等化を実現するということは、決してありえない。もし可能だったとしても、そのような教育達成におけるすべての差異を解消するような教育制度を作り出さなければならないということにはならない。それは、教育達成の多くの差異は、子どもたちの異なった知的、文化的、情緒的性向や属性を根絶することでしか解消できないからである。だが学習が不十分な子どもたちが民主的な意思決定に参加するための合理的な機会を持てない社会においては、その多様性のすべてが価値あるものとは言えない。民主主義の国家は、子どもたちから政治のプロセスに参加するのに十分な教育的達成を奪うような不平等を回避する措置を執らねばならない。

能力主義的解釈(153)
能力主義的な配分はどこまで認められるのか
・原理上、能力主義は才能のない子や動機づけの低い子どもを社会的に基礎的な識字水準まで教育することを求めないし、民主的国民に形成されるための十分な教育を保証するものではない。しかし、一旦すべての子どもに政治に参加するために十分な教育が確保されるならば、民主主義者は能力や動機づけが高い子どもはより多くの教育を受けるに値するという根拠から、限定的能力主義を擁護できる。能力主義の民主主義的解釈からすれば、民主的国民に形成されるための最低限のラインである「基礎境界」を超える教育は、能力や動機づけに応じて配分されなければならないのではなく(公正な民主的プロセスに依拠して)配分されても構わないということになる。

○民主的基準の定式化(155)
民主教育の公正な配分とそれに基づく具体的な基準の設定
・民主的な配分基準をさらに発展させると、以下の2つの原理として定式化できる。
  
❶民主主義的公認原理
→最大化解釈の誤謬を踏まえ、他の社会的利益と比較して教育への優先性を決定する権力を民主主義の各教育機関に与える
❷民主主義的基礎境界原理
→平等化解釈と能力主義的解釈の誤謬を避けるため、教育利益の配分における不平等は、それがいかなる子どもからも民主主義のプロセスに参加する能力を奪わないという場合だけに限って正当化されることを規定する

*疑問
・基礎境界には具体的にどんな基準が含まれうるのか。
・基礎境界に達しているかいないかはどうやって判断するのか。

教育が十分なものであるかどうかは常に相対的なもので、特殊な社会的文脈によるため、民主主義による決定が基礎境界を決めるもっとも有効な方法である。

○公教育財政(158)
教育の優位性についての民主的決定
・他の社会利益との関連で、国民が公共的に教育の優先性を決定する最善の手続きはどういうものか。1981‐1982年度のアメリカでは、地方行政が初等中等教育の財政負担のほぼ半分を担っている。ここから、教育の優先性を決める権限と教育機会配分の責任の約2分の1が、地方における民主主義の決定に置かれていると言える。これは以下の3つのような問題をはらんでいる。
  
アメリカの地方政府が教育財政に宛てている財産税は逆累進的(貧しい人に負担が大きく裕福な人に負担が少ない)
⑵学区内ではなく学区間において財産税は不公平な影響を及ぼす
⑶実質的に地方政府は教育の優先性を決めるのに必要な以下の2つの権限をあまり有していない
→教育にどれだけの経費を支出するかを決定する権限
→競争する他の社会利益にどれだけの経費を支出するかを決定する権限
  
⑴は税の一部または全部を免除する規定を設ければよい。⑵は貧困な学区と富裕な学区で児童一人当たりの税収額が同じになるように、州が補助をして税収を再分配する「パワー・イコライゼーション」によって解決できる。⑶は⑴、⑵にもまして深刻な問題で、地方政府の課税基盤は企業や富裕な家庭の所在に大きく依存しており、彼らは教育の経費のために税が重くなれば税がかからないところへ移住することができる。教育の優位性が民主的に決定されるためには、教育の財政支出に関する主要な決定を州や連邦政府レベルに引き上げる必要がある。州や連邦政府がすべての子どもを民主主義的基礎境界まで到達させるのに十分な財政水準をすべての学区に保証し、それを超える部分は地方学区ごとに自ら資金を調達し教育費に充てるようにすれば、教育財政に対するある程度の地方統制は保たれる。
ここまでで決定的な疑問が残されている。以下それについて答えていく。

Q.民主主義的基礎境界を達成するのに必要な経費をどのような方法で設定するのか。
A.以下の2つの措置が考えられる。
㊀「引き下げ」方式……州が、資金面で十分な学区から不十分な学区へ差がなくなるように資金を再分配する
㊁「積み上げ」方式……富裕な学区から資金を取り上げずに、州が不十分な学区に助成金を施す
㊀に関しては、教育に資金を注ぐ学区を罰する形になってしまう問題点がある。㊁は、より民主主義にとって利点のある方法だが、ここでは「パワー・イコライゼーション」と比較するとそれが一層明らかになる。パワー・イコライゼーションは生徒一人当たり教育費を均一にするという厳密な基準を設けるが、教育の質的判断は回避する。その結果、政治的実現不可能性や教育的不十分さが残される。「積み上げ」方式は、州が各地方学区の教育の質を調査して財政的に十分/不十分な学校を見極める。これは、民主主義の裁量に対抗して基礎境界を超える部分の平等化を強制せず、また、公職者(または国民)が教育の十分性について実質的な判断を行う責任を放棄させない点で民主的である。

Q.どのような水準の能力や達成を十分と見なすか。
A.仕事を手に入れ、自らとその家族がきちんとした生活を送るための機能的識字の能力があっても、自らと社会の将来の選択を決める政治課題を理解する能力を持たないのであれば(例えば、新聞の求人欄は理解できても新聞記事の主題を理解できない、小切手は書けるが国家経済については何も分からないといった状態)、彼らは民主主義の規範からして機能的非識字者である。
機能的識字の民主的定義から求められるのは、ハイスクールの生徒が民主主義の政治について考え、実際的経験を通じ、その審議の技法や知識を発達させることを可能にする知的技能と知識を持つことである。この基準は抽象的ではあるが、これにより生徒がいい仕事を手に入れたか、所得や教育的達成を平等化したか、などといった評価の基準から脱し、生徒を民主的国民に形成するという課題に向かって方向転換することができるのだ。

○不利な立場に置かれた子どもたちの教育(166)
基礎境界はハンディキャップを持つ子どもの教育に何を求めるのか
・基礎境界原理は、平均的な子どもより経費のかかる障害を抱えた子どもに対し、経費の増大は求めないが、経費増大によって他の子どもの基礎境界水準の学習が損なわれないのであれば、それは許容される。なお、恵まれない家庭に対する豊かな経済的、医療的、社会的サービス事業を供給する高度な福祉国家が存在しなければ、学校が特別サービスを提供しても、基礎境界まで子どもを教えることは不可能である。
教育経費を大幅に増額しても、厳しい障害を持っている子どもたちにとっては十分な対策とはならない。少々の教育では基礎境界まで引き上げるのが難しく、また彼らの行動が他の子どもの教育を妨害する場合、同一の環境下において他の子どもの教育と両立しないのである。ある子どもが他の子どもの教育あるいは安全の明白な脅威として立ち現れる場合、その子どもと他の子どもは切り離されて別々に教育されるべきである。
脳に障害を持ち、最善の教育と社会的サービスをもってしても民主主義政治への審議能力や実効的な参加能力を付与できないような子どもに、われわれは他の子どもと同様に民主的能力を与える義務を負うことはできないが、彼らにとっての良い生活を与える義務を負う。脳に障害を受けた子どもに対する学校教育と社会的サービスの組み合わせはわれわれの民主的意思決定に委ねられている。
連邦政府は1975年に全障害児教育法(公法94-142)を制定し、以降地方の学校に多くの事柄の規制と報告を課してきた。しかし、この連邦政府規定は学校の官僚化を招き、教師から時間を奪う。連邦政府は、より豊富な資金とより少ない規制によって役割を果たすべきである。不遇な子どもが基礎境界まで達するための資金を連邦政府が用意することで、州や地方政府は基礎境界を超える教育にどのような優先権を与えるかを決定するいっそうの自由を獲得できる。障害児の特別な教育要求を保護する手続き的保護基準に制限を限定することで、教育の公正を確保しつつ地方レベルにおける膨大な書類作業を削減し、障害児の教育を改善することができる。

*疑問
・良い生活を送る能力が民主的政治参加の能力の前段階で身につけるべきものなのか。
・脳に障害がなくても基礎境界に到達できない子どもの存在は考えられるが、彼らにはまず良い生活を送るための能力に焦点を当てた教育を施すべきなのか。

○学校の人種統合(176)
学校内及び学校間での人種統合における民主的基準の意義
・学校制度は、非除外の原則の実現のため多数者の意志に反してでも統合されねばならないのか。人種統合は初等教育における黒人生徒の教育的達成と白人生徒の人種的態度の改善を同時に推し進める潜在的可能性がある。近隣住居区によって子どもの通学先を決定され学校の人種統合が進展しないことは人種的偏見を永続させてしまうため、民主主義の政治によって支持されなくても、民主主義的原理によって擁護される。
都市郊外の教育委員会と議員の多くが人種統合のためのバス通学に反対しているのは、彼らが人種差別主義者だからではなく、学区住民の大多数が反対しているからだ。しかし、バス通学は実行する前は反対されるが、それを経験すると肯定的な評価が多くなる。よって、政治家は人種統合のためのバス通学を促すような政策を立てるべきである。ただし、これには2つの問題がある。1つはバス通学に反対する親を納得させる十分な証拠がないこと、もう1つは人種統合のためのバス通学を政策として掲げる政治家が選挙に勝てないことである。これらの問題を踏まえると、多数決の原理に対する司法による制限を発動できる裁判官が優れて実践的な立場にいることがわかる。人種統合のためのバス通学が地域の学校や地域社会の協力を得られないまま強制されるのだとしたら、それは人種問題への理解や黒人の学力達成を増大させるどころか減衰させるだろう。裁判官は地域社会の協力を得るため努力すべきであるが、しかしそれがどうしても得られない場合、裁判官は地域社会に人種差別撤廃計画を強制するべきである。

○民主的な機会の要求(185)
民主主義の基準が求めるものは何か
・民主主義の基準は、教育の結果や教育費の平等を求めるものではない。教育の機会均等の民主主義的解釈は、すべての教育可能な子どもたちが民主主義のプロセスに参加するために十分に学習することを求める。
学校は、社会の福祉政策の補償はできないが、それでも人種的偏見を克服するのに資する環境に子どもを長期間結びつけることで、民主教育に貢献できる。

*ガットマンへの批判
・「プラグマティズムを支持するアンダーソンは、多文化主義社会において人々の差異の承認を行うとしても、実践においては文脈依存的な解釈のもとで承認の判断がなされざるを得ないとし、ガットマンが市民的徳性として強調する寛容や相互尊重のような価値をあらゆる世界へと適応しようとすること自体が困難であることを指摘している」(平井 2017:P13)
・「ニューマンはガットマンが熟議民主主義を支えるために、公共的理性、相互尊重、自律性を支持する教育の必要性を論じていることを確認した上で、そうした教育論が宗教的な生き方を選択している個人の生き方を制約することになると指摘していく」(平井 2017:P13)
・「スプリングは、ガットマンの論法には二つの問題が存在することを指摘している。第一に、非抑圧、非差別の原理を支える権威の出所が、民主主義にではなく、ガットマン自身にあるということである。第二に、多数支配と特殊利害集団の影響から、非抑圧の原理を本当に護るような政治構造を提示していない、ということである」(平井 2017:P14)

 参考文献
・エイミー・ガットマン 著 神山正弘 訳『民主教育論』(2004 同時代社)
・平井悠介『エイミー・ガットマンの教育理論――現代アメリカにおける平等論の変容』(2017 世織書房