「思考のフロンティア」シリーズ

生来の出不精に加えて、近頃はコロナウイルスの感染への懸念もあり、家に籠もってごろごろしつつ本を読む日々を続けております。

 

公共性 (思考のフロンティア)

公共性 (思考のフロンティア)

  • 作者:齋藤 純一
  • 発売日: 2000/05/19
  • メディア: 単行本
 

「思考のフロンティア」シリーズではじめに読んだのはこれでした。「公的なもの」「共通のもの」「万人に開かれたもの」といった意味合いで用いられている「公共性」という概念。「共同体」とは違い、閉域を作らず、それぞれ異質な価値を人々が持ち、出来事への関心によってコミュニケーションが行われ、一元的・排他的な帰属が求められない。そのように、「公共性」について「共同体」と対比させつつ確認した上で、ハーバーマスアーレントらを参照しつつ議論がさらに展開されます。

 

 

この本、タイトルから想像されるのは発達心理学的なアプローチかもしれませんが、中身はプリーモ・レーヴィパウル・ツェラン金時鐘という、歴史に翻弄された3人の作家・詩人についての論であり、主に文学に関連した話が続きます。文体に刻まれた様々な痕跡を丹念に読み取っていくこと、境界領域において思考すること。

 

記憶/物語 (思考のフロンティア)

記憶/物語 (思考のフロンティア)

  • 作者:岡 真理
  • 発売日: 2000/02/21
  • メディア: 単行本
 

「〈出来事〉の記憶を分有するとはいかにして可能だろうか」という問いに貫かれた1冊。ここでいう〈出来事〉とは、「暴力的な出来事の、それについては語ることができないという点にこそ、その出来事の暴力性の核心が存在するような、そのような〈出来事〉」(p10)とされています。リアリズムや(自己欺瞞的な)物語への欲望、さらにそれらのナショナリズムとの癒着、そして忘却され否認される他者。岡はこのような視点から、バルザック「アデュー」やハインリヒ・フォン・クライスト「チリの地震」といったテクストを読み解き、スピルバーグの『プライベート・ライアン』『シンドラーのリスト』といった映画を批判します。第3章ではガッサーン・カナファーニー『ハイファに戻って』を扱い、〈出来事〉の記憶を分有する可能性を「〈出来事〉の記憶をナショナルな歴史/物語として、決して領有しない者たち」(p112)「人間が〈出来事〉を領有するのではなく、〈出来事〉が人間を領有する、そのような〈出来事〉を生きる者たち」(同上)といった「難民的生を生きる者たち」に見出します。

 

これらの本には「物語」「記憶」「他者」「アイデンティティ」といった言葉がよく登場し、互いに関連した問題を扱っていることが窺えます。興味を惹かれる内容だったので、同シリーズの他の本もこれから読んでみようと思っています。

 

国語科教育や文学研究方面で関連する本としては、以下のようなものが思い浮かびました。

「自動化・固定化された物語」について論じている部分は、岡真理「記憶/物語」における問題意識ととても近いように思われます。

 

こちらは和田敦彦さんの本で、図書館にあったものをちらっと読んだだけなのですが、前半に「物語の領有」に関係する部分があった気がします。